チップチューンという音楽に対する個人的な見解は「そこにあるのは人である」という結論になる。
風呂場で独りごちたことをそのまま書きなぐる。
前記事ではチップチューンを架空の漢字に置き換えたことで鯰絵にたどり着き、石(チップ)の大鯰(災い)を制御するタケミカヅチ(チップチューナー)という解釈をした。
そもそも楽器屋に演奏方法がわからないものが置いてあることに今まで疑問を持たなかったほうが不思議だということに気がつく。
楽器というものは素材と発音原理によって分類できるのだけど、つまり皮を張った筒を叩く、弓をはじく・こする、穴を開けた管を吹く、といったことで楽器は音を出す。
楽器というのは人の手足や口のその先で音を発する道具であるはずなのだ。だから人と楽器は一体となった感覚を伴うものなのである。
ところがインストールディスクやダウンロードカードの入った箱や、ゲーム機といったものはそうした行為とは無縁である。
音楽ソフトをコンピューターにインストールして、もしくは音源チップをハッキングして発音するためのプログラミングを施すことで、初めて楽器として利用できる。
ハードウェアシンセサイザーやサンプラーなら最悪ハンマーでぶっ叩けば破壊音という音として利用することも可能だけど、クラウドは音を発さない。
人の手の届かないところにある音楽、ゆえに人の手を介さないと存在し得ない音なのである。
だからそこに人の思惑が混ざり込んでしまうことは仕方のないことだ。
鍵盤の上に物が落っこちてもピアノは音を発するが、コンピューターはそれで音楽をやろうとする強い意志がなければ音を発さない。
まだ動作音を音楽的に解釈できるだけ、フロッピードライブやプリンターのほうが楽器らしいのかもしれない。
テクノがその無機的な電子音とは裏腹に真に人間に迫る音楽性を持つ所以はここにある。
かつて私は田中“hally”治久氏の著書『チップチューンのすべて』について「シーンなきチップチューンはチップチューンに非ず」という感想を抱いた。
これは私がチップチューンだと信じてきたものが『チップチューンのすべて』に書かれていなかったことに端を発するのだが、つまりチップチューンという音楽はシーンと密接に関係して成立している。
チップチューンという粗いドット絵に彩られた世界のすぐ裏側には、それを作った人達のコミュニティがあるのだ。
そんなシーンと切り離せない音楽だからこそ、Cheapbeatsの閉鎖は「Cheapbeats?なにそれおいしいの?」という私ですら大いに困惑する出来事となったのだ。
我々はチップチューンの電子音という側面ばかりクローズアップしてきたのではないか?
この事件はチップチューンという「人間の音楽」に対する問いかけである。